協会設立30周年記念祝賀会記念講演 時田 繁氏プロフィール

平成28年10月28日(金)に鹿児島市のホテルパレスイン鹿児島にて開催されます。
大会のスローガンは「ありがとう 30周年 共にひっ跳べ みらいびと」です。
今迄の30年に感謝して、これから先の設備設計業界を担う若者への期待を込めて
共に未来へ羽ばたいて欲しいとの願いが込められています。
記念大会に相応しい講演者が決定しましたので講師のプロフィールを紹介します。
鹿児島に所縁の深い講師であります。一般社団法人公共建築協会 常務理事 時田 繁 様です。
演題は「空から見た歴史紀行」との事です。なんだかワクワクする講演が今から楽しみです。
わが鹿児島を空から見た歴史紀行をどんな形で纏めて話されるのか自分なりに連想する
のも良いかもしれませんね。 乞う、ご期待です。
*一般の方の広聴はできません。

一般社団法人鹿児島県設備設計事務所協会設立30周年記念祝賀会記念講演
「空から見た歴史紀行」
tokitasama
講師  時田 繁 氏
一般社団法人公共建築協会  常務理事

講師プロフィール

昭和24年12月22日 神戸市に生れ、鹿児島市立西田小学校、城西中学校から
昭和45年 国立鹿児島工業高等専門学校機械工学科を卒業
昭和46年 国家公務員採用上級甲種試験に合格
昭和47年 建設省入省後 昭和51年に大阪工業大学工学部建築学科を卒業
建設大臣官房官庁営繕部設備課の課長補佐を経て、
近畿地方建設局設備課長時代に平成7年の「阪神・淡路大震災」に遭遇後
近畿地方建設局営繕部官庁施設管理官として震災復興対策本部にて活動、
建設大臣官房官庁営繕部設備課の建設専門官を経て、
中国地方建設局四国営繕管理官を歴任
平成12年 近畿地方建設局営繕部長に就任、
国立国際美術館並びに、国立国会図書館関西館、
ビッグ・アイや京都和風迎賓館、京都国立博物館平成館、
彩都(国際文化公園都市)などの事業を執行
平成13年 国土交通省近畿地方整備局営繕部長を最後に退官
平成14年 社団法人公共建築協会常務理事に就任

現在 一般社団法人公共建築協会常務理事として、
多くの公共建築物の低炭素化のための取組の推進・支援を行うとともに、
国土交通省中央建設工事紛争審査会特別委員としても、ご活躍中。

空から見た歴史紀行

公共建築協会 常務理事  時田 繁

2014年10月久し振りに羽田空港から鹿児島空港に向けて飛び立ちました。当日は全国的に晴天で視界が良く、日頃のフライトでは機内で雑誌を読んだり音楽を聴いたりしているのですが、窓側の席でしたので窓からの景色に見とれていたのです。

離陸してすぐに人口3000万人の首都圏が目に入ってきて江戸の町がよぎってきました。外堀と隅田川に囲まれたあたりが江戸の町の中心で人口100万人、多摩川に至るあたりは田畑や原野だったと思われます。青山、六本木、三軒茶屋という地名からも想像できます。

まもなく横須賀の軍港の上に来ました。幕末に小栗上野介は渡米使節での経験を活かしてフランスの援助の下に幕府軍の強化のために横須賀港ドックを建設しましたが、領地である群馬県高崎市で官軍により斬首されました。

三方が低い山で囲まれ海に面する鎌倉の町が見えてきました。鶴岡八幡宮の段葛(だんかずら)のある参道は若宮大路と呼ばれ、由比ヶ浜から八幡宮まで鎌倉の中心をほぼ南北に貫いています。静御前が鶴岡八幡宮の社殿(舞殿は当時はありません)で舞い、生まれた源義経の男子は由比ヶ浜に埋められました。また、稲村ヶ崎での新田義貞の活躍も思い出します。越前藤島で戦死したところにも訪れたことがありますが、さぞ無念だったと思います。上杉謙信は関東管領職を相続し、春日山から鶴岡八幡宮を参拝して拝賀の儀を行いました。よくもまあ三国峠を越えてやって来きましたね。

雄大な富士山を目の前にして芦ノ湖が見えてきました。ここには箱根の関所があり、ここから東が現在の関東なのです。入り鉄砲に出女については特に警戒が厳しかったようです。

甲府盆地、そこから流れ出る富士川が見えてきました。武田信玄が駿府の海に出てくるときのルートでした。また、源頼朝が挙兵した時に平家の追討軍が川を挟んで対峙していましたが、平家軍は水鳥の飛び立つ時の羽ばたく音に恐怖を抱き、一夜のうちに戦わずして敗走したのです。

南アルプスを過ぎると遠くに諏訪湖が見え、南信濃を一望に見渡すことが出来ました。そこから流れ出る天竜川は川下で大きく蛇行しており、暴れ天竜の異名を持っています。

諏訪湖を挟んで、「上社(かみしゃ)」本宮(ほんみや)前宮(まえみや)、「下社(しもしゃ)」秋宮(あきみや)春宮(はるみや)の二社四宮があります。主祭神は建御名方神 (たけみなかたのかみ)と妃の八坂刀売神 (やさかとめのかみ)です。

古事記では、天照大神の孫・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の降臨に先立ち、武甕槌命(たけみかづちのみこと)が大国主命に国譲りするように迫ったのに対して、大国主命の次男である建御名方命(たけみなかたのみこと)が反対し、武甕槌命に相撲を挑んだが負けてしまい、諏訪まで逃れ、そして以後は諏訪から他の土地へ出ないことと天津神の命に従うことを誓ったとされています。

7年目ごとに行われる御柱祭では、山中から御柱として樅(もみ)の大木を16本切り出し、4箇所の各宮まで曳行し社殿の四方に建てて神木とする勇壮な大祭です。なお、武甕槌命は茨城県鹿島神宮の主祭神として祀られています。私も御柱祭は見に行ったことがありますが、二社四宮がそれぞれ4本の神木で囲われているように思われ、諏訪から他の土地へ出ないことを誓ったことが伺われるとともに出雲からここまで追い詰められて来たのだというロマンの世界に浸りました。

高遠も思い出深いところです。天然の要害の城も桜も素晴らしいです。武田氏が織田氏に滅ぼされたとき、信玄の五男の仁科盛信がこの高遠城で最後の決戦をして武田氏の面目を保ったのです。また、江戸幕府第3代将軍徳川家光の異母弟の保科正之(ほしな まさゆき)は、会津藩初代藩主として有名ですが、その前に高遠で藩主としての薫陶を受けています。

中部国際空港、桶狭間の戦跡を過ぎて木曽三川(木曾川・長良川・揖斐川)の合流地点が見えてきました。杉本苑子の「孤愁の岸」を思い出します。

江戸幕府は、参勤交代・国換え・普請助役などにより外様大名などの勢力を削いで来ました。幕政の巧妙なからくりのなかで、宝暦年間に木曽三川の治水の難工事の矢面に立たされたのが薩摩藩島津氏で、工事の出費が嵩みました。未曾有の難工事は薩摩藩士の人柱など死屍累々の上についに完成します。総奉行平田靱負は多くの藩士を死なせてしまい藩の財政を困窮させた責任をとり自刃します。しかし、そのことに幕府が気づくと幕府への抗議という口実を与えてしまうのです。

平田靱負の遺体はその夜のうちに駕籠に乗せられて、東海道を京都伏見の薩摩藩邸に運ばれ、菩提寺である大黒寺の境内の地下6mに埋葬されるのです。その後、木造のお寺をRC造に建て替える時に、言い伝え通りに石棺が出てきて、現在は平田靱負の墓石の横に安置してあります。

飛行は順調に進み、関西地方と言ったり、近畿地方と言ったりするところに来ました。近年は「関西」という呼び方が増えてきました。しかし、関西という言葉は江戸時代以前にはあまり使われていません。畿内の畿というのは「都」あるいは宮廷という意味なのです。

関東という言葉は古代からありますが、前述の箱根の関の東という意味ではなく、不破の関(関ヶ原)、鈴鹿関、愛発関の東の田舎という意味だったのです。広島や岡山のことを中国地方と言いますが、なぜ中国地方と呼ぶかというと、九州と畿内の中にあるから中国なのです。つまり、日本のことを九州から近畿までしか考えていなかったということであり、そこから東が関東だったわけで、今では関東が首都圏を名乗っています。歴史上でも伊豆は配流の地であり、地名をみても近江は近いうみ(琵琶湖)で、遠江は遠いうみ(浜名湖)です。関西という言い方は東の方からみると箱根の関の西にある地という意味なのですが、西の方からみると昔ながらに不破の関、鈴鹿関、愛発関の西にある地という意味なのです。

奈良盆地、吉野、高野山が見えてきました。奈良盆地は遠い昔は沼だったために山沿いに神社仏閣、史跡が多くありますが、纏向(まくむく)遺跡、箸墓古墳、黒塚古墳など古代史のロマンが集約されたところで、度々訪れています。唐招提寺もよく訪れます。鑑真和上が苦難の末、日本に上陸した薩摩半島の坊津にも訪れたことがありますが、その思いに接した時は感慨無量でした。

紀ノ川沿いの九度山は、関ヶ原の戦いで西軍に与して敗れた真田昌幸・信繁親子が蟄居させられたところですが、九度山という地名は弘法大師が月に9度は高野山から山道を下って母を訪ねたことに由来しています。弘法大師の母は香川県善通寺から高齢をおして訪ねてきましたが、高野山への女人の立ち入りを厳しく禁じていた弘法大師は母の入山を許さなかったのです。弘法大師の母は慈尊院に住んでいました。母は本尊弥勒菩薩を深く信仰していたため、女人の高野参りはここ慈尊院ということになり女人高野とよばれるようになりました。

壬申の乱は、天武天皇(大海人皇子・天智天皇の弟)と弘文天皇(大友皇子・天智天皇の子)の争いです。天智天皇は病気が重くなった際に大海人皇子を病床に呼び寄せて後事を託そうとしましたが、天智天皇の猜疑心を危ぶんだ大海人皇子は、自ら出家して吉野に下りました。それまで政務を執ってきた大海人皇子の方が人気や実力を備えており、皇太子の位を大友皇子に譲ったのも天智天皇により粛清されるのを恐れたためでした。天智天皇が死去して大友皇子が後を継ぎましたが、大海人皇子はこれを好機に吉野を出て伊賀、伊勢国を経由して遠く美濃を目指しました。美濃ではすでに大海人皇子の指示を受けて兵を興しており、不破の道を封鎖していました。これにより皇子は東海道、東山道の諸国から兵を動員することができたのです。美濃に入り、東国からの兵力を集めた大海人皇子は近江朝を滅ぼしました。

私はこの壬申の乱の時代背景を考える時に、なぜ大海人皇子が美濃に向かったのかその理由を考えてみました。当時、美濃には多くの新羅の人たちが移り住んでいたのです。また、乱と合わせて大阪湾には多くの唐の軍船が集結していたのです。中大兄皇子(のちの天智天皇)は母の斉明天皇の意志を引き継いで、百済を救うべく多くの軍船を送りましたが、白村江で唐・新羅連合軍に大敗を喫し、危機を抱いた天智天皇は瀬戸内海から防御の堅い近江に遷都したのです。こうしてみると、情報手段のないこの時代に大陸と朝鮮半島を巻き込んだ大きな戦略があったことが理解できます。

その後、大きくは藤原京、平城京、長岡京、平安京と遷都がありますが、藤原京、長岡京などは下水のインフラが整備されていなく水はけが悪かったのが致命的でした。

男山八幡と天王山が遠くに見えてきました。京阪に行くときには必ず石清水八幡宮を参拝しますが、八幡太郎義家がここで元服したのです。ふと初代の征夷大将軍坂上田村麻呂の壮大な規模の前線基地(払田の柵)を思い出しました。秋田県大曲市の北方にありますが、きれいなせせらぎの中に当時の木の柵が残存していたのも感激でした。坂上田村麻呂に降伏した蝦夷の頭領アテルイとモレが河内国で処刑されたとありますが、現在の樟葉のあたりです。樟葉は福井から来た継体天皇が一時本拠地を置いたところでもあり、要衝の地だったのです。

大和葛城山、金剛山を過ぎて河内平野が見えてきました。「大坂」という地名は、上町台地の北端から大阪城の付近を指し、現在の大阪城には石山本願寺があり、船着き場があった天満から人々が石山本願寺に参詣するときに大きな坂があったために付けられたのです。河内平野には日本で最大規模の仁徳天皇陵、履中天皇陵が並んでおり、「倭の五王」讃、珍、済、興、武のいずれかのものといわれています。また、大阪湾には成田国際空港の土地収用の反省に立って海上に建設された関西国際空港と神戸空港が並んでいますが、いろいろな経緯があるものの一つの空港にできなかったのかなあと改めて思いました。

淡路島と徳島が視界に行ってきました。淡路島は兵庫県ですが、江戸時代は蜂須賀藩(本藩で現在の徳島県)の支藩でした。本藩の士族は白足袋を履き、支藩の士族は青足袋を履いており、本藩と支藩の間には確執があったのです。明治維新の時に本藩は幕府軍に、支藩は官軍に付きましたが、その後、稲田騒動(いなだそうどう)が起こり、喧嘩両成敗という形で兵庫県に帰属することになり、淡路島の士族は北海道の静内に流されたのです。

室戸岬が見えてきて、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」「歳月」「夏草の賦(なつくさのふ)」を思い出します。

□宍喰町(ししくいちょう)は、徳島県の最南端に位置した町ですが、佐賀の乱後、初代司法卿の江藤新平が自ら築き上げた警察のネットワーク網で逮捕されたところです。明治政府内で唯一、江藤の才能に匹敵する大久保利通は、江藤を危険視していました。逮捕された江藤は佐賀に戻され、大久保利通は全権を得て佐賀に入り、斬首の上梟首という新政府になって禁止されていた刑を言い渡したのです。私は江藤新平のことを、明治政府屈指の頭脳を持ちながら、悲劇的な生涯を終えた政治家と思っています。

一領具足で有名な長曾我部元親の居城である岡豊(おこう)城跡には何回か訪れましたが、窓から見える安芸の町(阪神タイガーズのキャンプ地)には安芸国虎の居城がありました。安芸国虎は長曾我部元親に抗戦しましたが、城内の井戸に毒を入れられるなどの攻撃により落城寸前となり、自害しました。長曾我部元親も晩年はかわいそうでした。最も期待をかけていた嫡男・信親の死で往年の覇気を失ってしまい、跡継ぎの盛親は元親の死後、関ヶ原の戦いで西軍につき敗れ、やがて大坂の陣で長曾我部家は滅亡しました。

長曾我部家の後を受けて土佐に入国したのは山内一豊で、一騎当千の兵どもが多い地侍を押さえるのに苦労したのです。ある時、高知は円弧の浜を有していますが、ここで相撲の試合を開くという名目で我こそはという地侍を多く集めて、これを惨殺しています。土佐では地侍を郷士、山内家の士族を上士という身分階級をつくり幕末まで続くのです。坂本龍馬を含めて明治維新に活躍した面々はみな郷士出身です。坂本龍馬のことは皆さんよくご存知ですが、司馬遼太郎は「竜馬がゆく」をはじめは「乙女姉さん」というタイトルにするつもりだったようです。坂本龍馬が脱藩した時の道(梼原街道)の付近が見えてきました。

間もなくすると足摺岬が見えてきたので、承平天慶の乱の時の藤原純友の唯一の本拠地である日振島が見えないか目を凝らしていました。藤原純友に関する史跡はあまり耳にしませんが、平将門は江戸の町の守護神として、今でもゆかりの史跡は大切に敬まわれています。

宮崎の東海岸が見えてきました。定規で引いたような直線をしています。まず、北方の延岡市付近に目が向きます。西南戦争の末期、西郷隆盛はここ可愛岳(えのだけ)で軍を解散する令を出します。そして、九州山地を縦断して、道なき道を故郷・鹿児島城山に帰るのです。

少し西に目を向けると天岩戸神話のある高千穂峡のあたりが見えてきました。私はいつも天岩戸神話に出てくる神様が長野県の戸隠神社に祀られているのが不思議に思えます。宮崎の真ん中付近には西都原古墳群(さいとばるこふんぐん)という日本最大級の古墳群があります。ここには仁徳天皇綾と相似でちょうど1/2のサイズの古墳があります。

少し東に目を向けると、米沢藩を再生した名君上杉鷹山(江戸で生まれて育っている)を輩出した高鍋藩があった高鍋の町が見えます。ケネディ大統領はその就任演説の中で、彼の残した言葉を引用しました。(国があなたのために何をしてくれるかではなく、あなたが国のために何ができるかを考えようではありませんか)

宮崎空港を経て、目の前に高千穂の峰が見えてきました。山頂には天の逆鉾があり、天孫降臨の地といわれていますが、古代において孫という字はあまり使われていません。また、魏の国が呉の国を滅ぼしたときの孫氏の行方については記述が残っていません。宮内庁は神武天皇の先代の神代三陵を管理しています。初代が可愛山陵(川内市)、次に高屋山陵(姶良郡溝辺町)、次に吾平山陵((肝属郡吾平町)です。呉の国のあった上海と鹿児島県川内市は海流を見てもつながっているような気がします。これも古代史のロマンの世界ですね。

いよいよ鹿児島空港に着陸しますが、空港の西に高屋山陵が見えてきました。空港を建設するときの飛行コースが高屋山陵の上を計画していたため、滑走路を東に変更したと聞いています。

空港ロビーに着いて、運よく充実した1時間半のフライトだったと振り返りました。